2019.07.12.Fri

宇川直宏インタビュー

いま、メディアのアイデンティティが試されている。DOMMUNEのアティテュード

いま、メディアに求められる姿勢とは何なのか? 宇川直宏が2010年に開局したライブストリーミングチャンネルDOMMUNE(ドミューン)が、今年3月のピエール瀧逮捕後に「WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE!」のスローガンを掲げて実行した一連のアクションは、フジテレビ系の情報番組「バイキング」をも相手取りながら、そんな本質的な問いを社会に投げかけた。そもそも、宇川のアート作品であるDOMMUNE。騒動の経緯を追うとともに、メディアの未来やアートと社会の関係についても質問をぶつけた。

音楽愛だけでは越えられない現実をいかに解きほぐすか?

──はじめに、DOMMUNEが3月26日に配信した「DJ Plays "電気グルーヴ" ONLY!!」について聞かせてください。ピエール瀧さんの逮捕後、所属レーベルは関連作品の出荷停止を発表し、当時、世間では瀧さんへの激しい批判が起きました。そんななか、DOMMUNEでは彼らの楽曲のみを使う「電気グルーヴ縛り」のDJプレーを5時間にわたり配信しました。

宇川 自分はこれまで、電気グルーヴや石野卓球さんの作品に、ジャケットのデザインやミュージックビデオのディレクターとして数多く関わってきました。つまり、これまで約10年にわたってアーティストとクリエーティブな交流を図ってきたわけです。そんななか、音楽メディアであり、自身の「現在美術」プロジェクトであるDOMMUNEが、あのタイミングで起こすべきアクションは何か? そう考えたことが、番組のきっかけになりました。

関連作品の出荷停止、在庫回収の撤回を求める署名には、ネット上で6万人以上の賛同が集まりましたよね。もちろんその運動には賛同したのですが、個人メディアとしては、少し立ち位置が違うという気持ちがありました。

というのも、いま言ったように、僕はアーティスト側ともレーベル側とも近しい関係にあったから、コンプライアンスに細心の注意を強いられる現代におけるレコード会社側の置かれた状況や、苦渋の決断も理解できた。さらに深く言うと、結局、僕はそのレコード会社の中の個人とつながりがあるわけで、これまでもレコード会社全体の意思ではなく、個の意思と向かい合ってお仕事をさせてもらってきたわけです。

一方、リスナーが音楽を聴きたい、購入したい欲求も当然分かる。これまで僕はそのリスナー個人に向けてグラフィックや映像を投げかけてきたわけですから。このように送り手と受け手の双方の立場を深く理解したうえで、音楽への愛だけでは乗り越えられない現実をいかにメディアとして解きほぐしていくか? そのことを考え、またストリーミングメディアの特権を生かし、5時間、電気グルーヴの音楽のみがプレーされるプログラムを全世界に向けて配信することにしました。これはもちろん、電気グルーヴのお二人が生み出した音楽への敬意の表明でした。

「DJ Plays "電気グルーヴ" ONLY!!」
2019年3月26日 (火)、DJ WADA、KEN ISHII、SUGIURUMN、Licaxxxによる電気グルーヴ楽曲だけのDJミックスを5時間配信
(写真提供:DOMMUNE)

自粛の必要のないウルトラフリーなメディア

──DOMMUNEの反応は、多くのメディアで自粛の方針が取られたのと対照的です。

宇川 そうですね。ただ、あれだけ回収、停止、自粛と煽りながらも、あの時期地上波では「Shangri-La」が異常にヘビロテされまくっていましたよね。地上波は完全に放送理念が破綻しています。リリックが刷り込まれ、キスする夢を見た人があの時期たくさんいたのではないでしょうか?(笑)

おっしゃるように、民放の歴史は自粛の歴史ですよ。僕は大学で教鞭を執っているので、このことをもう16年も専門的に教えているのですが、明文化された禁止事項なんて最初はほとんどなく、判断も規制もこれまで自主的に行ってきたものの積み重ねです。放送禁止用語だってすべて事業者の自主規制です。最近では、ポリティカルコレクトネス(ポリコレ)を重んじすぎて、言葉狩りが行われているような印象さえありますね。

──どんどん不自由な場になっている印象はありますよね。

宇川 昭和の地上波なんて、ゴールデンタイムに水泳大会のポロリとか普通に映し出されて、秒速で家族の団欒を硬直させてきたし(笑)、トーク番組では出演者がタバコをチェーンスモークし、モクモクと煙ったスタジオの中での対話が公共の電波を麻痺させていました。また、深夜のブラウン管には普通に裸体が映し出され、お茶の間を欲情させてきたし、子どもたちの性器は生まれたままの姿で、健康的に丸映しにされていました。僕が幼少の頃のテレビはこんな感じでしたよ。

たとえば「11PM」終了後、鳴り物入りで始まった「EXテレビ」の上岡龍太郎さんが司会をする曜日は、テレビ論/テレビ批評を行うメタ番組でした。その「低俗の限界」という伝説の放送では、上岡さんと島田紳助さんの首にまたがるかたちで、全裸のAV女優が座っていて、生放送なのでもし二人が大きく動いてしまったら女性器が丸映しになり、放送コードに引っかかってしまう、というたいへんスリリングな実験放送もやっていた(笑)。またこの放送が番組の歴史の中で最高視聴率を獲得していることからも立証し得たように、昭和のテレビメディアは社会を挑発し、大衆の欲望を映し出してきたのです。

宇川直宏(DOMMUNE)

──人々の「見たい」という欲望と、倫理の駆け引きが面白かったんですね。

宇川 そのとおりですね。また、この話をするなら僕の師匠の一人、伝説のプロデューサー康芳夫先輩は、70年代に日本テレビの「木曜スペシャル」で、国際ネッシー探検隊を結成し、石原慎太郎を隊長としてネス湖にネッシーの捕獲をしに行っていました。オカルティックですね。また、直立二足歩行をし、ビールを飲み、タバコを吸う、謎の類人猿オリバー君を来日させ、スイートルームに宿泊させて、テレビで人間の花嫁を賞金をかけて募集して、類人猿の子どもを番組を通じて出産させようとしていました(笑)。昭和のテレビ、ガチ・エクストリームでしょう?!

──どうかしてますね(笑)。でも、面白い。

宇川 そんな時代から反省に反省を重ね、自粛を重ねた地上波は、テレビ局自体のコンプライアンスの問題や、ポリコレ棒で叩かれたりする世の趨勢から、いまや規範意識は年々強くなっていますよね。

背景には、視聴者同士が交流できるSNS以後の情報環境や、モンスタークレーマーの増加があるわけですが、ライブストリーミングメディアは別に民放連(日本民間放送連盟)に加盟しているわけじゃないし、自粛の必要なんてないスーパーフリー......、いや例えが悪かったですね(笑)、もとい、ウルトラフリーなメディアなんですよ。

なのですが、だからこそ尚更、リテラシーが問われているのです。そこでどんなアクションを起こすか、ブレない自己同一性がフリースタイルで試されている。ゆえに、その一貫性を貫く僕らDOMMUNEは美術表現としての信頼さえも得ているわけです。

──縛るものがないからこそ、一貫性や覚悟が試される。

宇川 そう、今回面白かったのが、当時、ワイドショーのフリップで、瀧さんの出演ドラマや映画について、代役への交代や出演シーンカットなどの状況が一覧の表になって報じられていましたよね。大手の映画会社やテレビ局が一様に自粛の措置をするなか、東映の映画「麻雀放浪記2020」とDOMMUNEだけがその風潮に一石を投じたかたちの表になっていて、しかも我々は「(5時間配信)」と書いてあって。

──ひとつだけ真逆に突き抜けている(笑)。

宇川 これでもう、わかるでしょう(笑)。説明不要。僕らはDIYで康芳夫イズムを受け継ぎ、いまも社会を挑発し続けている。これまで9年間、赤字でもDIYでまわしてきた屋台や駄菓子屋のような個人メディアが、そんなメジャーな企業と姿勢を比較されること自体、「ワイドショー大丈夫か?」と思うけど(笑)、この時代、アティテュードを貫けばこのように自然と影響力を身につけてしまうわけです。

もちろん、昨今はハードコアなコンプラ問題を極端に強いられるという背景があって......だからこそ、大手の各企業は自粛の対応をするしかなかったのだと思いますが、僕らはグラスルーツなネットメディアなので、5時間配信を遂行できたわけです。
結果、46万6932ビューワーを獲得し、全地上波と競い合って #DOMMUNE は4時間連続Twitterトレンド日本1位、世界4位という記録を打ち立てた。文字通り、電気グルーヴの音楽は国境を超え、まるでSNS時代のラブパレードのような音楽愛に満ちたバイブがタイムラインに充満していました。しかしその後、その現象を報道したフジテレビの「バイキング」が、DOMMUNEを「知らない」というだけでマウンティングをし、坂上忍さんを火の元として集団で僕らのことを袋叩きにしたわけですね。

音楽の純粋なエネルギーを届ける

──「電気グルーヴ縛り」配信から2日後の3月28日、情報番組「バイキング」ではこのDOMMUNEの取り組みが紹介されました。その際、出演者がDOMMUNEの配信を「売名行為」と断ずるような場面があり、SNS上で批判が起きました。そもそも電気グルーヴ企画のステートメントには、音源の出荷停止やクラブカルチャーに対する偏見に基づく報道、作者と作品の同一視などへの問題提起がきちんと記されていた。宇川さんが紹介を承諾したことには、こうした配信の趣旨が少しでも伝わるなら、との思いもあったんですか?

宇川 まさにその通りです。「バイキング」などあの時間帯のワイドショーって、視聴者の年齢層が高いですよね。だからソーシャルメディアになじみのない層に向けて、自分たちの配信における姿勢が広まることは重要だと思いました。また、サブカルチャーの豊かな源泉であるクラブシーンをゴシップとして消費しようとする下世話なメディアの動きに対し、アンチを表明し、自分たちのアクションとあの日の熱狂を伝えたいという思いもありました。だからお引き受けしたのです。

にもかかわらず、報道を見ていると、「抑止力」という謎の正義を振りかざし、スキャンダラスに大衆意識を煽るかたちで、叩き放題のメディアリンチ状況があの番組では正当化されていたでしょ。コンプラ、ポリコレで自粛を強いられているテレビメディアが、規範意識を反転させて振りかざす「これ見よがしな正義」の乱用は「暴力」以外の何物でもない......このことがあの日の「バイキング」ではあぶり出されました。もうテレビ完全に終わっているな......と。

もうひとつ、我々DOMMUNEは「平日から祭りで何が悪い」というスローガンを掲げ、9年間にわたってストリーミングを重ねていますが、やはりいまだに音楽の持つ魔術的な効能に驚かされ続けているわけですよ。このように心身に作用する豊かな音楽的栄養を毎日無料で解放する我々DOMMUNEの真の試みを、歪曲せずに伝えてほしかった。僕らのメディアは、いわば石原軍団の炊き出しを毎晩行っているようなものなのです。

──音楽の炊き出しですね。

宇川 しかも、今日はダニー・クリビット本人が動物性タンパクの高いNYハウスを配給したから、明日はリッチー・ホウティン本人がケミカルなミニマルテクノのサプリメントでビタミンやミネラルの高い四つ打ちを配布して健康の維持増進を果たし、さらに明後日は南米のダンスリチュアルVOODOOHOPや南アフリカの現行アフロハウスgqom(ゴム)で、トライバルで根菜的な食物繊維のイーブンキックを補給すべき......とか(笑)、栄養士さんみたいに音楽的、文化的な栄養価をワールドワイドに配給すべく日々行動しているわけです。

Danny Krivit Japan Tour 2019

2019/04/25 「Contact Presents King of New York - Danny Krivit Japan Tour 2019」
(写真提供:DOMMUNE)

──栄養バランスが偏らないように配慮もしつつ......と。

宇川 そんな炊き出し音楽メディアでもある自分たちだからこそ、あのタイミングで、電気グルーヴにリスペクトを表明し、あらゆるしがらみを超えて、全世界の人々に平等に解放されるべき音楽のフィジカルな躍動を、あらためて問い直したかったわけです。音楽は誰のもの......?と。

──そんなDOMMUNEの問いかけに音楽ファンが反応し、電気グルーヴの特別配信は驚異的な反響を呼びました。

宇川 事故前のドイツの「ラブパレード」のような、老若男女がサイバースペース横丁でダンスしているイメージを開局当初から僕は持っていたのですが、DOMMUNEがあのタイミングで「WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE!」のスローガンを掲げ、SNS時代のラブパレードをあのようなかたちで果たせたのは非常に感慨深いですね。実際、電気グルーヴの5時間配信では、海外の人々も多く視聴するなか、タイムラインには音楽愛にあふれたエネルギーが循環していました。あの配信は、祭り本来の持つ抑圧に対抗するカウンター的エネルギーと、極限にまで解放されたフリーな意識交流の場が共存していた革命的な時空でした。直後、石野卓球さん本人からも暖かいメールをいただきました。

「ラブパレード」

ドイツで2010年まで行われていた世界最大規模のレイヴパーティー「ラブパレード」(写真 : Getty Images)

無知と思考停止の共有。ムラ社会としてのテレビ

──しかし、そうした配信の意図は結果的に「バイキング」にないがしろにされてしまいました。

宇川 あの「バイキング」の放送には、テレビという戦後から続くオールドメディアのムラ社会的な性格が如実に表れていました。MCという権威が牛耳る有無を言わさない排他的ソーシャルがあのひな壇にはありましたね。もしあの中で、DOMMUNEを知っていたら村八分にされそうな、威圧的空気が真っ昼間からお茶の間に丸映しにされていました(笑)。たしかに、テレビの影響力はいまだに強くあるわけですが、だからこそ、自らの優位性を保つため、コミュニティーのしきたりに反するようなアンダーグラウンドなものに対する見下しと、排斥、そして威嚇が自然と行われたわけです。奴らにとっては、恐ろしいことにあれがいまだに自然なのですよ。

──個人的には、番組出演者がDOMMUNEを知らないことはあり得るとしても、そのことがすぐに未知の活動を叩いていい材料になるという思考回路に疑問を感じました。

宇川 本当にそうですね。ワイドショーにとって、ネットカルチャーになじみのない視聴者を代弁する声がひな壇に存在していることの意味は大きい。しかし、専門知をまったく持たない彼らテレビタレント同士が、何の議論もせずに、知らないムーブメントや知らないカルチャーを「知らない」という理由だけで、集団でメディアリンチを行ったわけですよ。自らの無知を掲げて、お茶の間に思考停止の共有を果たそうとした。これは究極の「からっぽの世界」(笑)です。

──ジャックス(1960年代に活動した日本のロックバンド。「からっぽの世界」はその代表曲)ですか(笑)。悲しい世界ですね......。

宇川 さらに言えば、日々こつこつと世界の側に配信している我々グラスルーツメディアの上澄みをすくい上げ、それを批評すらせずに、記号として加速的に消費させようとする下世話な動向も感じました。その意味でも、あの日はテレビメディアの終焉を感じた。オチとしては、一連の騒動のあと、「バイキング」では扱うトピックについて専門知のある人を呼ぶようになったんですよ。そこは僕らがマスに対してコアなアンサーを返せた大きな功績だったのでは?と自負しています。

宇川直宏(DOMMUNE)

「知らない」に対する、「知り尽くす」というアンサー

──アンサーと言えば、そんな「バイキング」の放送を受け、DOMMUNEでは約2週間後の4月15日、番組MCの坂上忍さんの音楽活動に焦点を当てた「DJ Plays "坂上忍" ONLY!!」を配信しました。

宇川 その配信の内容については、「バイキング」の放送中にすでに決めていました。つまりあの放送は、「バイキング」から仕掛けられたDOMMUNEへの「ビーフ」だと瞬時に捉えたわけです(笑)。

──抗争をふっかけられていると(笑)。

宇川 そうです。仕掛けられた以上、真摯にアンサーを返さないといけない。でも、彼らの立っているような無知で排他的なステージに上がるようなアンサーの返し方は、一番浅はかな報復律でしょう。

そのとき瞬時に、彼らが「知らない」ことを盾にしたのに対して、こちら側は徹底的に相手を「知る」という知性で返そうと、完全反転した回答が浮かびました。そこで翌日からメルカリやヤフオク!で坂上忍先輩が過去にリリースしたすべてのバイナル(レコード)の音源をディグりまくり、フルコンプリートに向けてその筋に造詣の深いDJフクタケくんとともに動き始めたのです(笑)。

じつはこのとき僕の念頭にあったのは、何とハイレッド・センターの「首都圏清掃整理促進運動」なんですよ。

──ハイレッド・センターは、1960年代に活動した赤瀬川原平さんたちのアーティストグループです。「首都圏清掃整理促進運動」はその代表的な活動で、1964年の東京オリンピックに向けて整備が進む東京で行なった、集団で街路を掃除するパフォーマンスですね。

宇川 そう。つまり、逆説です。もうひとつは、全否定ではなく、アンチテーゼを用いて、坂上忍先輩をわざとひとつ上のステージに引き上げてあげる(笑)。当時ハイレッド・センターが行ったのは、プラカードを掲げてデモをするスタイルも当然あるなか、整備される東京のなかで、あえて集団で清掃をするという真逆の態度表明だった。一見純朴に見えるそのパフォーマンスの反転した異様さ、イノセントな狂気。その「前衛」を今世紀的に噛み砕いてアンサーを返せないかと、一休さんを見習って、瞬時に作麼生(そもさん)、説破(せっぱ)しました(笑)。

その結論が、坂上忍先輩のバイナル・フルコンプです。まずは氏のことを人一倍学ぼう、と。そして、そのバイナルを使ったプレーをエンターテインメントとして昇華させる。「フリースタイルダンジョン」(テレビ朝日)に代表されるようなMCバトルでは、互いにののしり合い、攻撃し合うスタイルが定着していますが、あれは本来ギャングスター同士の殺傷や銃撃での血で血を洗う抗争を抑止するために、ディスやフロウを用いたアートフォームに昇華させた結果だから理に適っているのです。

だけど、SNS以降のメディアバトルにおけるアンサーにとっては、バイナル・フルコンプのような非戦的な姿勢をいかにフェテッシュに提唱できるかが重要だと感じています。なぜなら、ここには「学び」があるからです。これは行動理念が純粋で勤勉な行為なので、賛同を得やすい。そして、斎藤清作(たこ八郎)のノーガード戦法のように、ファイティングポーズを取らないこの姿勢を打ち出すことで、まずはネット民を味方につけることができる。

──実際、DOMMUNEのアンサーには、ネガティブではなくポジティブな空気が感じられました。

宇川 「お前、知らないんだ!?バーカ!」と抗議するより、ビーフを仕掛けた相手側の情報を収集し尽くし極限まで学習する(笑)。そして学習している間に、理解が及ぶわけです。「なぜ忍は、真っ昼間の公共の電波で眉間にシワを寄せ、正義を装って私刑を行うキャラクターになっていったのか?」。子役から俳優、そしてMCへ......。知れば知るほど、哀れみの感情にとらわれるようになり、同情の意識さえ芽生えてくるようになりました(笑)。このように、ヘイトがラブに変わってしまうほどの領域まで、本当に身にも心にも忍への想いを充満させないと、視聴者側が僕らのアンサー番組を通じて純粋な感動を得られないのでは、とさえ思い始めました(笑)。

そしてこれこそが、絶対的にDOMMUNEが僕のアートプロジェクトであるゆえんなのです。つまり僕自身のアイデンティティーを忍に重ね合わせ、分裂させている(笑)。結果、ストーカーに化けるのではないのか?と恐れられるほど、偏執狂的な番組になったと思っています。そう、僕は知れば知るほど、忍のディスコグラフィーから感じ取れる一人の男子の「成長の物語」を生番組へと昇華させようと考えるようになったのです。

WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE!

2019/04/15「WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE! 2Three Shells Presents
『成長と音楽』〜子役から俳優、そしてMCへ」
(写真提供:DOMMUNE)

DJカルチャーの美学を世界に開放する

宇川 一人の男子の成長物語を見せたい......。この想いから配信のうち前半2時間は、幅広く現代音楽にお詳しい西耕一さんと、坂上忍にこれまで3度もインタビューを行ったプロインタビュアーの吉田豪さんにも登壇いただいて、「成長と音楽」というタイトルの特集を行いました。子役から俳優、そしてMCへ、成長とともに表現を広げていった坂上忍の生い立ちに、人類、文化の成長としての音楽、そして、メタボリズムを重ねながら成長し最後には死へと向かう音楽の歴史を同期させながら、壮大なコスモロジーを描きました(笑)。これは西さんと豪ちゃんのお陰ですが、芸能と芸術をつねに行き来しながら進行したたいへん貴重な番組になりました。

そして後半が、過去に坂上忍がリリースしたシングル10枚、アルバム4枚、サントラ2枚を完全にコンプリートした音源のみで構成する「DJ Plays "坂上忍" ONLY!!」です。なんと結果、コンプリートどころか、ダブりまくって余りに余った、まさかの坂上デフレシングルを2枚使いして(笑)、DJフクタケくん、DJ1,2くん、DJ SOUMAくんがそれぞれ超絶なる技巧によって、全忍バイナルを華麗なるエンターテインメントに昇華させ、熱狂を生み出してくれました。我々DOMMUNEはこの日、忍に対するアンサーを通じて、DJカルチャーの美学をターンテーブルマナーにのっとって、世界の側に開放し得たのです。そう、他者を知ろうとする謙虚で一途な行為を10日間で極限まで突き詰めたことによって、やっとポジティブな狂気が表出するゾーンにまで突入できた(笑)。

2019年4月15日 (月) 「DJ Plays "坂上忍" ONLY!!」
DJフクタケ、DJ1,2、DJ SOUMAによる、坂上忍がリリースした音源のみのDJプレイを2時間配信(ただし実際の番組では「バイキング」出演者の森公美子の音源も1曲プレイされた)
(写真提供:DOMMUNE)

──相手へのリスペクトも忘れずに、自らの技や態度も見せる。最高のエンターテインメントであり、DJカルチャーからのアンサーですね。

宇川 「すべての音盤はターンテーブル上で平等に再生表現される権利を持つ」。これは僕が尊敬する幻の名盤解放同盟の言葉ですが、おそらく本人が葬り去りたいと感じているような「黒歴史」とされる音源も含め、再生表現される権利が当然平等にあったわけです。

この試みをなんとTHA BLUE HERBのBOSSくん(BOSS THE MC)も見てくれていたようで、配信後、熱いメールをいただきました。そこで改めて、このアンサーで間違いなかったのだと強く確信が持てました。僕はラッパーでもないのに、彼の「削るだけではなく、修復できるのもヒップホップ」という言葉に強く感銘を受けていたので、大変ありがたかったです。

「WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE!」。そう、やはり、音楽は我々みんなのものであったのです。その証拠に、この日のビューワー数は32万でなんとまたTwitterトレンド日本1位、そしてなんと電気グルーヴの日をUPDATEして世界2位という記録をおっ立ててしまいました。忍が......(笑)。そして配信を受けて、彼の子役時代のバイナルはネットで価格が約10倍に高騰していました(笑)。

「グラスルーツメディア」のアティテュード

──今回の一件は、「マスメディア対個人メディア」という構図でも捉えられると思います。そのなかで、マスメディアの姿勢に疑問を持つと同時に、企画の面白さや扱う対象に対する愛情の深さという面で、個人メディアの可能性を感じた人も多いのではないでしょうか。宇川さんは今回、あらためて個人メディアについてどんなことを考えましたか?

宇川 ECDさんは「MASS 対 CORE」という曲で、大衆に迎合した表現がいかにリアリティーを失うのかを、1995年に言及していますよね。セルアウトという言葉が一般にまで降り始めたのもこの時期です。マスメディアは読んで字のごとく、受け手が大衆で、売り上げ至上主義です。つまりマスに関わるプロジェクトは、人気を製造せねばならない。人気の正体というのは、結局は「人の気」であり、移ろいやすいものです。それが集まる場所が栄えているように見えますが、この場所は消費と表裏一体なので、製造した人気で「人の気」を集め続けるには、膨大なコストがかかる。なので、表現にとって人気の集合だけにとらわれるのは大問題なのです。

──移ろいやすいものに立脚しているから、表現も表層的で一過性のものになりますね。

宇川 そうですね。トレンドを煽り、大衆迎合しているわけですから、加速的な消費を前提に生み出すわけです。対して、個人メディアも同じく人の気の流れを媒介していることに変わりありません。しかし大きくかけ離れているのは、大衆を相手にしていないこと。極端に言えば一人のビューワーだけを対象に番組を作ってもいいわけです。つまり、「これはほとんど誰も知らないだろう」っていう対象を扱った番組も、一人のビューワーの思い入れや気の深ささえあればぜんぜん成立してしまうのです。この真髄(コア)だけを失わなければ、どんな番組も価値のあるものになります。そういった純粋な人の気の流れを扱っているのが我々DOMMUNEです。

すると、その未知の聖域にも自然に人は集まってくるわけです。そして、ここに集まった気は思想的根拠がしっかりとあるので、なかなか離れません。このように、マーケティングに基づいて製造し、むやみに集めるのが本当の人気じゃないわけですよ。

たとえば、AKB48の総選挙。あれは人の気を数字に換算しているのですが、じつはたったの1票が5億票以上のディープな思いを含む場合もあるのだと僕は言いたい。その無限の奥行きを理解できないと、個人メディアの可能性や真理はまったく理解できないと思いますよ。個人メディアには、マスメディアとはまったく違う次元での正解がある。現代アートとデザインがぜんぜん違うものであるように。

宇川直宏(DOMMUNE)

──数字というものさしでは測れないものがあると。

宇川 自分はDOMMUNEを個人メディアではなくて、「グラスルーツメディア」と呼ぶほうがしっくりくるんです。草の根的で、組織に属さないインディペンデントメディアであること。「お金のため」に、いや、「社会のため」にという目的意識より、もっと根底にある価値観の土台を育むメディアでありたいのです。

つまり最終的には、マス対コアのような二項対立では語れなくなっている現実があるということです。そもそも理念も目的も思いも異なる。でも、今回のようにそれらが接触することもあるわけです。そのことはたいへん興味深く、そして重要で、それによって番組制作に向かうアティテュードの違いがあぶり出される。

──両者の根源的な異質性が浮かび上がる瞬間ですね。

宇川 「バイキング」にすれば、年配の視聴者を数日間楽しませるに足るネタを刈り取って、それを燃料に番組が作れればいいわけでしょう。自分たちがやっているのは、普遍的な価値観や美意識に基づいた番組づくりであって、アティテュードがまったく違うんですね。なのでDOMMUNEでは、むやみやたらと消費を加速させるような配信は、この9年間の活動で一度もやっていないんですよ。

ライフログとしてのアート

──これまでも何度もお話しいただきましたが、そもそもDOMMUNEは、メディアであると同時に、それ自体が宇川さん自身のアート作品でもありますね。

宇川 そうです。今年は瀬戸内国際芸術祭に参加しますし、これまでも金沢21世紀美術館や、山口情報芸術センター(YCAM)、アーツ千代田3331で展示を行い、札幌国際芸術祭やさどの島銀河芸術祭、またオーストリア・リンツのアルスエレクトロニカなどにサテライトスタジオを開設し、参加してきました。お小遣いの範囲内で成り立っているいわばZINEやミニコミに近いフォーマットにもかかわらず、なぜ国際展にも招待されるかと言えば、開局当初から自分の日々のライフログとしてのライブストリーミングを、アート活動であると世界の側に打ち出してきたからです。

2016/09/08-11 「DOMMUNE x Ars Electronica『DOMMUNE LIVE』Radical Atoms - Alchemists of our times

2016/09/08-11 「DOMMUNE x Ars Electronica『DOMMUNE LIVE』Radical Atoms - Alchemists of our times」

宇川 自分がディレクターを務めた高松メディアアート祭に、ヴィヴィアン・マイヤーという写真作家をキュレーションしていたんですけど......。

──別の媒体 ※ ですが、高松メディアアート祭の際にもお話をお聞きしました。
CINRA.NET「宇川直宏が探究する「メディアアートの紀元前」とはなにか?(外部サイト)

宇川 彼女はベビーシッターでしたが、とんでもない記録魔で、自分の体験した世界をつねに写真や映像、カセットテープに記録していたんですよね。死後どこにも発表していないネガが15万枚以上発見されました。つまり、ソーシャルメディアにアピールする生活履歴と同じように、ライフログそのものを作品化する活動を誰にも見せずに行ってきた。そして、生前は未発表だったその膨大な写真が、死後オークションに出されて、発掘、そこからSNSを通じて拡散されて、写真集が全米1位になったり、映画化されたりもしました。

それと同じように、DOMMUNEも、地下スタジオに自らを軟禁したストリーミング・サドゥーである宇川直宏のライフログを、作品として日々アップロードしていくような表現なのです。

──ストリーミングの「サドゥー」(行者、苦行僧)というのは、スタジオにこもってストリーミング配信に身を捧げている宇川さんにピッタリの表現ですね(笑)。

宇川 最近、そう言うようにしています(笑)。つまり、DOMMUNEは僕の動く絵日記。だから、嘘がつけないメディアなんですね。この9年間、赤字なのに、続けている(笑)。なぜ続くのかと言えば、これは「労働」でも「仕事」でもなくて、「活動」だからですよ。今回の一連のアクションも、こうした自分のアーティストとしての態度を映し出したものなのです。

「仕事」「労働」から、「活動」へ

──ある種個人的な営みでもあるその宇川さんの取り組みが、今回、社会全体に対してメディアのあり方を考える契機を与えました。その理由は何だと思いますか?

宇川 社会全体で働くことに対する認識が変わり、「活動」の領域に関心が集まっていることも一つの要因だと思います。先にお話ししたとおり、DOMMUNEがこの9年間行ってきたのは「活動」です。

高度経済成長期は、日本人が物質的な豊かさを求め、終身雇用制を前提にした戦後の労働のありかたがデザインされた時代でした。植木等の「無責任シリーズ」における「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」というリリックが、平和が訪れた日本の「労働」への姿勢を示していました。

それがバブル期へ以降すると、あの社畜ソングと名高い、エナジードリンクのリゲインのCM曲「勇気のしるし」のリリック、「24時間戦えますか」が生み出されるわけです。そしてサラリーマンではなく、ビジネスマンを謳い、「仕事」に対するアティテュードを表明していました。しかし、24時間戦ったらすぐに死んでしまいます(笑)。

──(笑)

宇川 その後、バブルが弾けた90年代に入ると、リゲインのCMではあの勇ましいマーチではなく、癒し系のストリングスアレンジの「勇気のしるし」が流れ始めるのですが、2010年代、ふたたびマーチを使い出したので驚いた。しかし、そのCMでは「うる星やつら」のラムちゃんが空を飛んでいて、コピーはなんと「3、4時間戦えますか?」になっているんですね(笑)。これは自虐ネタなのです。ワーキングプア、非正規労働者、ブラック企業......「仕事」の現場には問題が山積みだということをラムちゃんに代弁してもらっているわけです。

労働力=人間の時代から、経済のグローバル化によって、資本=株主にシフトしたいま、「仕事」とは果たして何なのか? ハンナ・アーレント(ドイツの哲学者。人間の活動を「労働」「仕事」「活動」に分類した)の『人間の条件』(1958)をいま読み直すべきです。

つまり、働き方の姿勢がいま、改革されているわけですが、だからこそ「仕事」や「労働」ではなく「活動」に注目が集まっている。人工知能(AI)に仕事の47%が奪われるとささやかれるなか、人はそれ以外の「活動」に多くの時間を費やせる時代が来るかもしれないわけですよね。だからこそ、ベーシックインカムが注目されているわけです。

コミュニケーション消費の時代

──仕事観が変化し、人々の意識がより自主的な領域に向き始めているわけですね。

宇川 そんな時代の文化のあり方を、僕はDOMMUNEを通じて日々考えてきました。経済成長期の物質的な豊かさや、80年代のセゾンカルチャーの文化的豊かさ、オタクカルチャーのハイコンテクスト消費を通過し、ここ数年、文化のあり方はコミュニケーション消費の時代へと移行しましたよね。2017年ごろから「モノ消費」から「コト消費」の時代へ、そしていまは「トキ消費」「エモ消費」の時代であると言われていますが(笑)、これは全部まとめて「コミュニケーション消費」のことです。これはもうリア充配信の始祖である我々DOMMUNEの時代がやっと来ているということですよね(笑)。

──文化の軸がコミュニケーションになっている?

宇川 だって、ライブストリーミングの現状を見てみればわかりますよね。ニコ生がオワコン化したと語られている現在、日本で隆盛しているのは、FRESHLIVEやLINE LIVE、SHOWROOM、17Live、TikTokでしょう。すべてリア充配信ですよね。あとは、Instagramのストーリーズのライブ機能とFacebook Liveでしょう。これらの隆盛も同じ文脈で捉えられます。ネットカルチャーの歴史とともにあらゆる情報が共有されて、コンテンツ消費に飽きたいま、コミュニケーション消費の時代に突入しているのは間違いない。

さらにいまは、そのコミュニケーションの質が求められる時代ですよね。Ustreamはとっくに終了し、SNS黎明期を共に謳歌したニコ生もオワコンだと言われ続けているのに、個のライフログアートであるDOMMUNEが9年目にしていまだに影響力を持って生き続けている理由は、そのあたりに潜んでいると思うのです。

──DOMMUNEは、そのコミュニケーションの質の探求を開局当初から続けてきた、と。

宇川 そうです。偏在(いまここ)と遍在(いつでもどこでも)。日本語っておもしろいですよね「へんざい」という言葉は表記によってふたつのまったく相反する意味を持ちます。このようなふたつのコミュニケーションを融合させたメディアを作るべきだと。

DOMMUNEの開局した2010年は、ソーシャルメディアの台頭と重なっていますが、ほかのチャンネルと決定的に違ったのは、DOMMUNEがスタジオを持ち、そこに実際に訪れるオーディエンスの身体的なコミュニケーションと、現場をラップトップから覗き見るビューワーたちのバーチャルなWEB上での意識交流を核としたことです。そんなソーシャルな入れ子構造の共同体、またはそれを通じて連帯した意識体、この共時性を伴った実態こそを、COMMUNE(共同体)のネクストステップであるDOMMUNEと呼ぼうとしたわけです。だからこそスタジオを作り、生身の身体がうごめくリア充配信を始めたんです。

テレビの黎明期もこんな感じだったのです。日本のテレビの本放送が始まった1953年、その現場は、基本は生放送でした。番組も生、ドラマも生、コマーシャルも生。その黎明期に立ち会った人はいまと似たようなカオスを共有できていたのではないかと。そこで起こるアクシデントをいかにエンターテインメントにするのかがテレビの使命だった。でも、収録が主流のいまのテレビ番組の大半は、ハプニングをノイズとして排除する。それに対して自分たちDOMMUNEは、ノイズにこそ精霊が宿ると考えていまに至っているわけです。

宇川直宏(DOMMUNE)

本質的な「アートの社会実装」とは?

──ところで、DOMMUNEにも関わるメディアアートなどの分野では、「社会実装されるアート」という議論も盛んになっていると思います。つまり、アートも社会に役立つべきだ、と。そもそも社会実装される必要があるか否かも含めて、宇川さんはこうした議論をどう考えていますか?

宇川 アートプロジェクトとしてのDOMMUNEはどちらかというと、社会に機能しなくていいと思っているんですよ。アートはもっといびつであるべきだと思っています。社会実装の前提を打ち出しすぎたら、社会に擦り寄らないといけなくなる。我々は、実装される前の、もっと根源的な何かを映しだそうとしているわけです。自分自身の生きた痕跡、死に連なる時間。それらの撮影/配信/記録行為こそをアートだと捉えているのです。

もうひとつ、社会実装研究そのものはたいへん素晴らしいのですが、社会実装を目的にしたメディアアートがデザインなのかアートなのか、これは、じつは微妙な問題ですよね。というのも、先端的な社会に実装される価値のあるテクノロジーを使ってイノベーションを図っても、そのテクノロジーは翌年には更新されるわけで、100年残らないどころか、もう翌年古くなる。普遍的な表現になる可能性はたいへん薄いですよね。こうした表現は、消費を加速させるような世界に加担していて、一時的な驚きを打ち出せばいいだけなので、たやすいわけですよ。だから残らない。残らない=アートではない(笑)。

──表現の根拠が現在に寄りすぎている、とも言えますね。

宇川 たとえば今年、瀬戸内国際芸術祭に参加しますが、もし社会実装を考えるならば、ここには二つの意味があると思っていて。僕らは島々への旅の拠点となる高松市で、毎晩プログラムを配信するサテライトスタジオ=「DOMMUNE SETOUCHI」を開設し、1カ月半の間、夏季の瀬戸芸でストリーミングを行います。つまり、島々を舞台に展開される瀬戸芸のそれぞれのオーディエンスの旅の観光計画にDOMMUNEのプログラムが組み込まれる。そんな瀬戸芸のオフィシャルなプロジェクトの一部を、テクノロジーを使って世界に解放し、便益をもたらすのだから、これも立派な社会実装ですよね。

一方、もうひとつの社会実装と呼べるものに、瀬戸内の大自然とアートという究極の不自然との「融合」があると考えられます。じつは、それこそが瀬戸芸が目指している社会実装の聖域なのではないでしょうか?

──というのは?

宇川 日本における自然と人間との関係は、「格闘」だと捉えることもできますよね。死なないように耐震構造を考えたり、SNSを使って災害の情報を共有したり、被災に備えて保険に入ったり。相手は大自然ですからね。天変地異だって起こりうる。香川県出身の僕は台風で2度も床上浸水を経験しています。

その世界には、短命に朽ち果てる草花の美しさもあれば、年輪を蓄えて数千年生きている樹木もある。瀬戸内海が見渡せるそんな大自然に、モニュメンタルな現代アートを展示するのですよ? アートは究極の不自然ですよね。人間が生み出しているのだから。しかし、その普遍的なる美意識を信じて、この両者を「融合」させ、実装したのが、総合ディレクターの北川フラムさんと瀬戸芸の功績だと思う。

これこそが本当の社会実装で、だからこそ、ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー誌(英国版)の「2019年行くべきデスティネーション」で、"SETOUCHI"が1位になったんです。2位は「南極」ですよ(笑)? 大自然だけではなく、大自然とアートの融合が、南極に勝った!

直島にある草間彌生「南瓜」

直島にある草間彌生「南瓜」(写真:アフロ)

──すさまじいスケールです(笑)。

宇川 ヤバいでしょ? 何千年、何万年かけて偶然立ち上がった大自然のランドスケープの、そのビジョンに立ち向かうには、大自然に不自然を投入することだってことが、これで証明されてしまった(笑)。大自然の価値と不自然の可能性をこれ以上、強く結びつけた芸術祭のコンセプトっていままでなかったと思うんですよ。

──たしかにそれは、究極の社会実装と言えるものかもしれませんね。

宇川 実際、そのことによって舞台となる島々も活性化していますよね。アートを社会実装するという行為は、本来はこれくらいのスケールの話だと思うんですよね。

有限な時間のなかで、自らの「生」を表現すること

──一方で、現在的な視点で見ても、一種のジャーナリズムや報道と、アートとの融合という表現方法は、日本ではほとんどDOMMUNEが唯一の実践者だという印象があります。

宇川 それはやはり、DOMMUNEが日刊のメディアであることが大きいですよね。これが月刊や週刊のメディアだったら、社会との対峙の仕方も変わってくる。たとえば冒頭で延々語った「バイキング」の一件にしても、自分としてはそこまで大きな出来事ではなくて(笑)。

──宇川さんにとっては日々向き合っている対象のひとつに過ぎない、と。

宇川 そう。ひとつに過ぎないし、電気グルーヴの配信の翌日は、モジュラーシンセの5時間番組をやっていて、そちらも同じくらい重要なんです。ユーロラックのDIYモジュラーの進化が早すぎて、僕らはそれもフレッシュに扱わないといけないから大変なんですよ。そんなに忍にかまっていられない(笑)。

ちなみに明日(このインタビューの翌日)は遠藤ミチロウさんの追悼配信をやるんです。合計10時間。だからいまこうして答えながらも、明日はミチロウさんのバイオグラフィーに照らし合わせて、どの章で何の曲をかけるのが正解なのか......いまも頭の片隅で考えていて(笑)。しかしこの追悼番組も、一種のジャーナリズムなんですよ。

平成から令和に移り変わった途端に昭和のジャパニーズパンクの象徴、遠藤ミチロウ氏の訃報が列島を駆け巡った。天皇の生前退位の一方で、母国のパンクアイコンの死という大きな歴史の節目を体感することになったわけです。68年の生涯を閉じた昭和のパンクアイコンは、究極のパフォーミングアーツをやり遂げて亡くなったわけです。それによって、今回の改元は列島全域のパンクスたちにとって別の意味を持ってしまった。そのことを番組化するのです。

2019年5/22(水)遠藤ミチロウ緊急追悼番組「THE END 0」

2019年5月22日(水)遠藤ミチロウ緊急追悼番組「THE END 0」
(写真提供:DOMMUNE)

──遠藤さんは、その「死」すらも表現に変えてしまった。それにメディアとしても応答しなければいけない、と。

宇川 はい。そしてその「死」に向き合うことができるのは、自分がいま、生きているからです。いま自分は「死」と向き合える立場にあるのだから、自らのメディアを通じて故人の功績をたたえ、その生きた意味を世界と深く共有するしかない。朽ち果てて亡くなっていくことの美しさ、アートだって大自然と格闘・融合しているのだから、生身の身体は、死と格闘し、最終的には融合するしかないでしょう。そのような美意識をいかに自分のアートプロジェクトのなかに擦り込んでいけるのか。それが、人工知能にはできない生身のアーティストの表現だと信じています。だからAIもDOMMUNEに参加して、もっと宇宙の本質を学ぶべきだと思いますよ(笑)。

宇川直宏

DOMMUNE/"現在美術家"。1968年生まれ。香川県/高松市出身。京都造形芸術大学情報デザイン学科教授。映像作家/グラフィックデザイナー/VJ/文筆家/そして"現在美術家"など、幅広く極めて多岐に渡る活動を行う全方位的アーティスト。
2001年のニューヨークPS1 MOMA「BUZZ CLUB」、ロンドン・バービカン・アートギャラリーでの「JAM展」での展示から、国内外の数多くの展覧会で作品を発表。2013~2015年度文化庁メディア芸術祭審査委員。2015年度アルスエレクトロニカ(リンツ・オーストリア)審査委員。

取材・文:杉原環樹(すぎはら・たまき)
ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院美術専攻造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、現在は美術系雑誌や書籍を中心に、記事構成・インタビュー・執筆を行う。主な媒体に「美術手帖」「CINRA.NET」など。構成を担当した書籍に、トリスタン・ブルネ著『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす』(誠文堂新光社)。一部構成として関わった書籍に、Chim↑Pom著『都市は人なり-- 「Sukurappu ando Birudoプロジェクト」全記録』(LIXIL出版)、筧菜奈子著『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』(フィルムアート社)、『これからの文化を「10年単位」で語るために - 東京アートポイント計画 2009-2018 -』(アーツカウンシル東京)など。
写真:横山・マサト(よこやま・まさと)
編集・取材:Qetic(けてぃっく)
国内外の音楽を始め、映画、アート、ファッション、グルメといったエンタメ・カルチャー情報を日々発信するウェブメディア。メディアとして時代に口髭を生やすことを日々目指し、訪れたユーザーにとって新たな発見や自身の可能性を広げるキッカケ作りの「場」となることを目的に展開。
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#04 アートは未来をどう変える?