2019.04.24.Wed
過疎化、高齢化、税収減少…
地元を立て直す!
首長たちの秘策と覚悟
日本の市町村の半数にあたる896市町村が、「消滅」の可能性があるという増田寛也元総務相らの衝撃の発表があったのが5年前だ。アベノミクスやインバウンドの効果はあるものの、限定的で、過疎化に悩む自治体は多い。地域をどう立て直していくのか? 新しい北海道知事の鈴木直道さん、全国最年少町長の桑原悠さん、日南市長として注目を集める崎田恭平さんの若手首長3人に話を聞いた。
「食と観光を軸に、北海道を前進させる」
北海道・鈴木直道知事
――まずは大変だった選挙戦について、うかがいます。3月21日から17日間、北海道を駆け回りました。38歳と若いとはいえ、なかなかハードだったのではないでしょうか。
当たり前ですが、北海道は本当に広かったです。面積は夕張市の110倍。道内をくまなく回り、移動距離は5700キロにのぼりました。ちょうど、札幌から沖縄へ行って福島まで戻ってきたようなものでしょうか。おかげで、かなりシャープになりました。
――選挙は奥さまもかなり協力されたようですね。
当初は、北海道の179市町村を全部回るつもりでした。しかし、時間的に165市町村までしかいけず、残りの離島など14町村は妻に託しました。初めて行く土地が多く、慣れなかったと思うのですが、一生懸命やってくれました。
――夕張市長から、なぜ北海道知事を目指したのか。改めて教えて下さい。
いま、全国の自治体はさまざまな課題を抱えています。私のいた夕張市では、人口減少、少子高齢化、財政難の3つの苦難に直面しています。ピンチをチャンスに、という言葉は使い古されているかも知れませんが、こうした苦難を希望に変えようと職員に言い続けてきました。2008年から夕張で働いて、財政再建の道筋をつけるなど解決先進自治体と呼ばれる取り組みを進めてきました。今度はそれを、広域自治体である北海道で、前進させていきたいと思いました。
――北海道知事に就任されてからは、何に手を付けますか。
まずは「食と観光」に力を入れたいと思います。北海道の食はこの10年で、ポテンシャルがとても高くなっています。以前は、あまり美味しくないコメの代名詞とも言われた北海道米は、今では世界に輸出するブランド米として、国内外に認識されています。醸造用ぶどうの栽培面積も国内1位です。北海道産の食品の海外輸出は現在1000億円規模。これを2023年度までに1500億円にしたいと思っています。そのためにも、中国、台湾を中心としていたターゲットを、経済成長を続けるASEAN地域にも拡大する。合わせて食文化もプロモーションしていきます。
――観光分野はどうでしょうか。
昨年9月の胆振東部地震で一時期ダメージを受けましたが、回復してきています。食と観光をうまく連動させ、インバウンド(外国人の旅行客)を20年度までに、いまの2倍近い年間500万人に引き上げたいと思っています。北海道は人口減少など待ったなしの課題がある一方、可能性を持つ分野も数多くあります。それらを磨き上げていくことが、課題解決をする上で重要だと考えます。
――10年後のビジョンを教えて下さい。
北海道新幹線が札幌まで延伸するのが2030年です。それとともに、冬季札幌オリンピック・パラリンピックの誘致を図っており、「新時代」北海道の重要な節目になると思います。しかし、北海道は札幌市でさえ、将来予測で人口が減少するとなっています。インバウンドなど国際化は進む一方で、コンパクトでスマートな社会が一層求められるでしょう。道外からも知恵や力をお借りしながら、災害に強い安心安全な北海道づくり、民営化効果を発揮させた空港運営などの交通体系構築、さらなる北海道ブランドの発信など、道民がもっと元気になる、新しい北海道をつくっていけたらと思います。
「都市部との格差をなくし、持続可能な社会に」
新潟県津南町・桑原悠町長
2018年7月、全国最年少の女性首長が町政をスタートさせた。桑原悠(くわばら・はるか)さん(32)は、人口1万人弱の津南町で町長を務めるかたわら、長女(4)と長男(2)を育てる母親でもある。
津南町は長野県との県境に位置し、日本有数の豪雪地帯として知られる。基幹産業は農業。魚沼産コシヒカリの生産が盛んな典型的な"田舎町"だ。季節外れの吹雪となった4月初旬、越後湯沢駅から車で40分ほどの場所にある津南町役場に桑原さんを訪ねた。
「町長の仕事は体力が要りますね。考える時間や本を読む時間があまりないので、これまでの少ない蓄積の中でアウトプットしていて......。自分としては若くてよかったと思います」
地震で故郷が被災しUターン
桑原さんは津南町で生まれ育った。近隣の南魚沼市の県立国際情報高校を経て、早稲田大学、そして東京大学公共政策大学院に入学。元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんに憧れ、「国連の仕事がしたい」と夢見ていた彼女が故郷に戻るきっかけとなったのは、東日本大震災直後の2011年3月12日に起きた長野県北部地震で、故郷の津南町が被災したことだった。
「東日本大震災が起きた日、東大の図書館にいました。図書館って揺れると危ないところじゃないですか。とても怖かったです。それで帰宅難民になってしまって、翌日の未明にようやく高円寺の自宅に帰ったのですが、部屋でテレビを見ていたら津南町が被災したことを知って......。『もうこの世の終わりだ、手伝わなければ』と思って、Uターンすることにしました」
町の復旧作業を見ながら、自身の今後をじっくり考えたという。
「大学院では、まわりは都市部出身の秀才が多くて、私のような山間地の農家の娘という"田舎者"はいませんでした。そういう環境で、『珍しい存在である自分』に気づきました。これを強みと思い、強みを生かすにはと考えたとき、自分が故郷のまちづくりで役立てるのではないかと考えました」
町議から、31歳で町長に
町議選に立候補したい意向を周囲に伝えると、「若いのに大丈夫か」と言われたが、両親は納得してくれた。当時25歳。2011年10月の町議選に立候補してトップ当選、15年の町議選でもトップ当選し、18年6月の町長選では2候補を破り、31歳で町長に就任した。前町長と比較して約40歳も若返った。
「町議として活動しているうちに、町を守っていくということは、時代の流れに対応しながら町のありかたを変えていくことだ、と気づきました。いま町長になって初めて予算を組んで、4月1日からスタートしたところです。一般会計の予算規模は64億円ですが、自分の考えで配分できる町の単独事業費はわずかです。でも一つひとつ課題に向き合って、落ち着いて、明るい気持ちを持って、できるかぎりの種まきをしたので、これから花開けばいいなあと思っているところです」
農業強化と未来会議の設置
町の課題の解決に向け、桑原さんは手を打ち始めた。津南町の町是は「農を以て立町の基と為す」。整備した広範囲の農地(田2000ヘクタール、畑1250ヘクタール)を生かし、米だけに頼らず、園芸に力を入れるために、新潟県庁から農業専門の職員を派遣してもらった。さらに、町の将来像を考える「津南未来会議」を町民から公募して、5月下旬に発足させる。
「今回の『津南未来会議』は普段の役職にこだわらず、普通の町民の人に参加してほしい。町を良くしたいと思って情熱的に活動している町民はたくさんいます。たとえば、廃校となった小学校を活用して都会の子どもたちとの交流をしたり、『大地の芸術祭』を通して台湾と交流したりしている住民グループがいます。また、津南の大自然のなかで子どもたちを対象に英語でキャンプをする、米国出身の人がやっている会社があるんですが、いまは本社を津南町に移して『観光で地域をつくる』ために活動しています。そうした活動をつなぎ、面として外に見せていく場として、未来会議が機能すればと。私の仕事は、皆さんの力を発揮していただく環境づくりだと思っています」
そうした試みが花を開けば、10年後の津南町は大きく変わるのだろうか。
「将来は、この町でビジネスをする人や起業する人が現れ、動きが生まれていると思います。そうじゃないと、町は維持できません。『地方創生はバラ色みたいに語られているけどバラ色じゃない、本当はイバラだ』と聞いたことがありますが、本当にそうだと思います。でも、それが私にとっては楽しいし、やりがいです。経済が拡大し様々な施設を建てた時代もあったと思いますが、いま、こういう状態で地方自治の現場を任されていることが、とても幸せです」
一方で、人口減少が進むなかで、中心市街地に人も機能も集めて効率的なまちづくりを進めようとする「コンパクトシティー」の考え方が広がりつつある。人口9700人程度の津南町は10年後に存続しているのだろうか。
「悩ましいところです。でも、2017年9月に発表された研究(広井良典・京大教授らと日立京大ラボ研究チームの共同研究『AIの活用により、持続可能な日本の未来に向けた政策を提言』)で、日本は地方分散型のほうが持続可能だという結果が出ましたよね。私もそう思います。いまの津南町は、みんなが町の将来を考えて意思決定するのに、ほどよい規模なんです。だから維持していければ、おもしろい単位かも、と思うのです」
養豚業を営む夫(37)とは父の紹介で出会った。ひと目見て、「しっかり地に足が着いている人だな」と思い、結婚した。桑原さんは今後も津南町で生きていくと決めている。
「常に土のにおいがする場所にいるのが私の生き方だと思いますので、現場に近いところにいたいと思っています。子どもはまだ4歳と2歳なので、地域でしっかり子育てをしたいです」
地方と都市部の格差をなくす
常に前向きな桑原さんには、かつての東京時代の友人ら多くの応援団がいる。だが、話をしていると、不安になることがあるのだという。
「日本の国土を守っていたり、食料を供給したり、文化をつくってきた地方のことを実感としてわかる人がいなくなったら大変です。いま混迷を極めている英国のEU離脱問題も、もとは地方と都市の格差や分断から発生した問題ですよね。この国を守るには、都市部と地方の格差をなくし、お互いが行き来することが大事だと思います。そうすることで、お互いがお互いのことをわかり合えるのですから。私はここ津南町で教育や医療がきちんと受けられる政策や、多様な人が関わる政策を打ち出して、この国の地方を守っていきたいと思っています。4年間、見ていてください」
「変化に対応できる人材育成で、市を発展させる」
宮崎県日南市・﨑田恭平市長
地方の過疎化が進む中、「地方再生のモデルケース」として注目を集めているのが日南市だ。2017年度だけで100を超える自治体が視察に訪れた。牽引しているのは、6年前に33歳の若さで市長となり、現在2期目の﨑田恭平さん(39)。日南市をどうデザインし、明るい未来をつくろうとしているのか。
赤と白で彩られた駅舎に「Carp」の文字。日南市は、プロ野球の広島東洋カープが50年以上もキャンプをしており、2月と11月には多くのファンが押し寄せる。
日南市天福球場の近くにある油津商店街も賑やかだ。普段の平日は、さすがにそこまでの賑わいは見られないが、この商店街こそ、﨑田さんが1期目に取り組み、多くのメディアで「再生した商店街」と取り上げられた場所だ。
商店街を実際に歩いてみると、「再生」とは少し違った印象を受ける。「昔の賑やかだった商店街よ、再び」といった方向とは別の、何か「新しい場所」をつくろうという意図のようなものが感じられるのだ。
﨑田さんに、そんな感想を伝えてみる。
「昔の商店街に戻そうとしても、宮崎市にあるイオンモールへの人の流れは止められないし、Amazonにだってかなうわけがありません。また、既存の飲食店からは『人口が増えていないのに店が増えれば、客の取り合いになってしまう』という声もいただきました。確かにその通りです」
日南市は、商店街にこれまでとは違う機能を持たせるような取り組みを、市長が初当選した6年前から進めている。空き店舗だった場所にIT企業を誘致して入ってもらう、若い起業家が働きやすい仕組みもつくる、子育て支援センターもつくる。
「いま、商店街で120人ぐらいの若者が働くようになりました。みなさん、帰りには飲みに行くし、昼には弁当も買われるので、飲食店にとってプラスになります。もちろん、中にはうまくいかない企業も出てきますが、撤退した跡に新しい企業が入ってくるような働きかけもしています」
雇用を守るためのIT企業誘致
常に新陳代謝が起きる、新しい「商店街」をつくっているところが、高く評価される理由だろう。ただし、なぜIT企業の誘致なのか。それは若者が日南市から出て行くことと、大いに関係していると﨑田さんはいう。
「地方には仕事がないと思っていますよね。でも実は違うんです。私が市長になった6年前、仕事がなかったわけではありません。問題は『若者が好む仕事がない』ということなのです」
職種別の有効求人倍率を分析すると、確かに介護職や建設業は人手不足だ。工場も人が集まらなくて苦労している。その一方で、事務職の有効求人倍率は0.1倍や0.2倍。1人の募集に10人が申し込むような状況だ。そこで、目をつけたのがIT企業だった。
日南駅の東側には、製紙大手・王子製紙の日南工場がある。企業城下町として発展した側面もある市の歴史をよく知る年配者に話を聞いてみると、「工場誘致に力を入れてほしい」という声が聞かれた。しかし、﨑田さんは力説する。
「『ITはよう分からん』といわれることも少なくありません。住民説明会などで説明して、理解してくれた人もいますが、まだ多くはないでしょう。でも、考えてみてください。例えば、テレビをつくっていた工場は、テレビが売れなくなったからといって、明日からクルマはつくれません。別のものをつくろうとすると莫大な設備投資が必要です。一方、WEBサービスやシステムの開発をおこなうIT企業は、既存のサービスをやめて新しいサービスをつくろうと思ったとき、人材を育てていれば、1時間後から取りかかれるのです。もちろん雇用は守られます」
インタビュー中、何度も﨑田さんは「人材」という言葉を口にした。これは、﨑田さんが4年前に掲げた「創客創人」にも通じる。日南市にはもともと、さまざまな観光資源があり、全国に誇れる地場産品もある。これらを生かして「本当に客が喜ぶようなサービスを創り出せる人材を育てていこう」というスローガンだ。このほか、「日本一、企業と組みやすい自治体」「日本一、データを駆使する自治体」など、分かりやすいフレーズを多用する。
「政治って、いちばん非科学的な感じがしているんです。なんかふわっとしている。だから、分厚い資料を見たり、たくさんのデータを読み込んだりして決めたことを、どれだけ市民に分かりやすく伝えて、納得してもらえるのか。それがリーダーの大きな仕事だと思っています」
2期目になり本丸にメス
新しいことに果敢に取り組む﨑田さん。市長として実績を積み重ねてきた2期目の現在はともかく、1期目は、さぞ抵抗も激しかったのではないだろうか。そう水を向けると、﨑田さんは笑った。
「最近のほうが激しいかもしれませんね。市長になったばかりのときのほうが、意外と抵抗はなかったんですよ。県庁職員から市長選に当選して、まあ『お手並み拝見』だったんだと思います。だから思う通りにすすめることができた。でも、意識した部分もありました。最初は、あまりみんなの利害が関係しないことからやっていこうと。例えばIT企業の誘致とか、油津港にクルーズ船を誘致するとか。喜ぶ人はいても、困る人はいません。でも2期目になって、いよいよ本丸というか、メスを入れるべきところにメスを入れ始めているわけです。だから最近は、結構、議員の方とも突っ込んだ議論をしていますね(笑)」
城下町の再生に全力
そんな﨑田さんが、今こだわっていることの一つに飫肥(おび)城下町の再生がある。「九州の小京都」ともいわれ、「ななつ星」の仕掛け人でもあるJR九州の唐池恒二会長が「おすすめの観光地」として挙げたことで、注目が高まった。江戸時代の町割りや石垣、門などが当時のまま残っている。
「この街並みを残してくれた先人たちには、本当に感謝しています。この素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい。それをやるまでは市長は辞められないと思いますね」
﨑田さんは、九州大学卒業後に宮崎県庁に入庁し、一時期、厚生労働省に派遣された。その時に感じたことがある。
「霞が関では、国会議員とか業界団体のトップとかの大きな声は聞こえてくる。でも、学生時代にボランティアで通った児童養護施設で聞いたような現場の声は、なかなか聞こえてこない。国民に近いところで政策をつくっていきたい」
どんな変化にも対応できる人材をつくる
﨑田さんは、日南市を「課題先進地」と位置づけ、ここで日本のモデルをつくりたいという。日本はそもそも世界でいちばん少子高齢化が進んでいて、地方はその傾向が著しい。だからこそチャンスがあるともいう。
「日南市に、都心の大学生らが時々やってきます。彼らは『日南だと成長できる』っていうんです。東京にいるよりも課題が目の前にある。行政と民間の距離が近くて、チャレンジできるからだと思います」
いまの時代、変化のスピードはあまりにも速い。2030年にどうなっているのか、どのような日南市を想像しているのか。
「はっきりいって予想がつきません。でも、どんな状況の未来がやってきても、その変化に対応できる人材をつくることが私の究極の仕事だと思っています。だからこそ、いろんなことにチャレンジしてきた蓄積が地域の中にある、という形をつくっておかないといけない。人材をつくることがゴールです。外から来たくなるだけでなく、残りたくなる日南市、一度出ても戻りたくなる日南市というのが理想ですね。『就職先がない』というのではなく、『自分たちで仕事をつくるんだ』という若者がどれだけ生まれるか、そういう土壌をどれだけ準備するか、だと思っています」
- 北海道知事 取材・文 武内正巳(たけうち・まさみ)
- 1962年、札幌市生まれ。札幌学院大学商学部卒業後、北海道建設新聞社に入社。建設業界全般、行政・都市問題、技術・工法、環境などの取材を担当。2015年からフリージャーナリストに。16年第10回日本ファシリティマネジメント大賞功績賞を記者として受賞。日本PPP・PFI協会シニアアドバイザー(メディア)
- 撮影・A-CLIP 浅野一行
- 津南町長 取材・文 河野正一郎(かわの・しょういちろう)
- 1967年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。東京・大阪両本社の社会部記者を経て、AERA・週刊朝日両編集部で副編集長。2016年からフリーランスに。ネットメディアなどに記事を執筆するかたわら、書籍の編集を担当。
- 撮影・市川陽太
- 日南市長 取材・文 飯田和樹(いいだ・かずき)
- 1976年、愛知県生まれ。同志社大学文学部卒業後、金属業界専門紙を経て、毎日新聞社に入社。中部本社、東京本社社会部、東京本社科学環境部など。2018年からフリーランスに。ネットメディアで主に災害・防災関係の記事を執筆するかたわら、編集も担当する。
- 撮影・猪崎康介